旧法と新法

 「もう…よい…王宰相、司馬右正言。二人とも下がれ」
 声は、帝の側近、宦官の鄭覚のものだったが、俺と右正言の司馬悠はそれまでのやりとりを中断し、後ずさり拝礼した。
 衣の摺れる音がして、御簾の向こうを数人が退席して行く気配がする。終了の刻限を遙かに過ぎた政議に、帝も疲れたのだろう。
 内殿起居は、宰相が群臣を率いて皇帝にご機嫌うかがいを兼ね、形式的に上奏を行う場面だが、この数日は、王朝始まって以来の論戦が巻き起こっていた。
 皇帝に政策を奉れるのは宰相だけであった。そして、その宰相の策に唯一異を唱えることが出来るのは台諫だけ。けれど、両者はそれぞれ個別に皇帝に意見を申し上げるのが常で、決して両者が御前で意見を戦わせることなどありえないのが慣例だった。
 
 今、前代未聞のことが、朝廷で起きていた。
 齢三十四。若輩ながら帝のたっての希望を受け、俺が礼部侍郎同中書門下平章事、いわゆる宰相の地位に就いて以来、改革に対し、異を唱える者が派を作り、閥を成してその策にことごとく反駁を加えるのだ。
 その、最先鋒が俺と同輩、科挙及第は一年遅れて参内した司馬悠。
「腹を減らした馬をいくら鞭打っても速くは走れません。馬には水と秣を十分に与えなくてはなりません」
俺は、政策の意図を美辞麗句に変じるのは朝飯前だ。
 厳しく農民から租税を絞ろうにも、民の懐中に絞るものがなければどうにもならない。歳幣が削減できない以上、国家財政を立て直すには、長期的に国の民、ひとりひとりの懐を肥え太らせるしかない。
 俺の施策は、そういったところに立脚している。
 だが、右正言に位する司馬悠は違う。
 努力しても、貧しい民がこれ以上、財を成すことは難しいというのだ。だから、国家の歳出を減らすしか財政の建て直しには方法はなく、それをしたとしても我が国を脅かす異邦の国々は、所詮は蛮夷、つまりは阿呆の集まりだから、我が国がその権威を以て説き伏せれば、たとえ歳幣を多少減らしたとしても、攻め込んで来ることなどあり得ない。彼らに与える分を歳出から減らすのは簡単だと言うのだ。
 司馬悠は高位高官を代々輩出してきた、名門の生まれだ。
 広大な土地を持ち、親族には塩や鉄を手広く商うものも多いという。その蓄財を元手に高利貸しをして、さらに肥え太っている一党が、低利で民には金を貸してやることで彼らの負担を減らし、その財を築かせよ、などという俺の策を是とするはずはない。
 「貧民を救ってどうする。焼け石に水だ」
司馬悠も詩才があるが、彼は西胡の砂漠に降る雨に貧しい民の労働意欲のなさをたとえて、俺の策を皮肉った。
 いったい、どこに貧しくなりたくて好んで働かないものが居るだろう。彼らは、働いても働いてもその利をすべて吸い上げられているというだけなのに。
 
 実際、俺と司馬悠は、互いに改革をしなければならないというところは一緒だ。
 この国が歳幣を逃れられない以上、その大きな負担であえぐ国家財政の建て直しは必要なのだ。
 ただ、俺と司馬は寄って立つところが違うだけだ。
 俺は長期的、彼は短期的にものを見る。
 しかし、面白い。奴との論議は。古来まれに見る論戦だという者も、古参の官僚の中には居るくらいだ。
 さしずめ、諸葛亮と司馬懿の知恵比べの一場面に比すとでもいうところか。
 科挙及第の文官が好みそうなことだ。

 その夜…。
 「歳幣を減らしたがために、蛮夷の怒りを買って、あのときのように都に攻め込まれ皇子が北狄に連れ去られるようなことになったらいかがします」
夢の中でどうしたのか、恨みがましいような顔をさせた彼に、俺は言った。彼が帝となってもう十年以上が過ぎるが、夢の中に登場する人を依然として俺は「皇子」と呼ぶ。
 司馬悠のいう通り、この国の権威を過信し、周辺の国に送る歳幣を減らしたりすれば、たちまち彼の国は攻め入ってくるに違いない。この国は戦のない世を、周辺の国に歳幣という名のいわば金子(きんす)をばらまくことで買い支えているのだ。
 金で購った泰平。
 そのための金をどうやって生み続けるか。
 国を豊かにするとはどういうことか。
 ものを円滑に流通させるということはどういうことか。
 愛しい男と乳繰るのも興奮はするが、このからくりを上手く動かすのも楽しいと知った。一部の富裕が百歩進むより、数万の民草が一歩進むほうが、この国全体としては豊かなのではないだろうか。
 司馬悠の言い分もわかる。そして奴の考えは、俺も足を踏み入れている、この官僚という輩の懐は痛まない。
 だが、俺は、どのみち己の栄達のためにこの道を選んだ訳じゃない。
 「傍に来て」と、絆されて就いた地位だから、いつ蹴り出されてもいい。
 蹴り出すのも…君だろう?
 いつ蹴り出されてもいいから、好きにやらせてもらう。
 誰もやったことがないことを。
 
 「寝食を忘れて、何に耽る?」
傍らで、不惑の歳に近づいた帝が十五の顔でそう言う。
 実際、昨夜も文を連ねている間に夜が明けた。そのまま早朝の垂拱殿に赴いた。
 もとより野を逍遙し、一夜かけて詩を作するような生活だった。それが、野の美しい花から、文の海へ泳ぎ入っただけだ。
 元来、懲り性。
 嫌いではない。
「悩むだけ無駄だ、この国のことを」
 ところが、どうしたことだ。その夜、十五の皇子は投げ遣りだ。
「私は、御簾の向こうにうつつのお前を見ることができればそれでいい。夢で逢えればなおさら。君は、宰相の冠を被り、そこにただ居てくれ」
と。
 困った。
 どうして…そんなことを言う?
「助けてくれと、言ったのは誰だ?」
俺は、皇子を見る。
「王宰相は、司馬悠との論戦を楽しんでいるだろう?」
「否」
「私は、君に出会った十二のときから、打てば響く才はない…右正言のように」
一瞬、何を言いたいのかと思ったが、すぐに覚った。
「皇子が心配するようなことは何もない」
だが、彼は目を伏せ、こちらに合わせては来ない。
「その夢に、君は幾晩現れてこなかったか?」
俺は、その言葉に胸を突かれた。
「皇子…」
 突然、彼が苦しそうに腹を押さえた。

 そうしてうつむいたまま…彼は夢を出ていった。