補記

 「皇子、皇子…」
 王亮の切羽詰まった声が宦官鄭覚のそれと重なるのを聞きながら、嫌々目覚めた。
 夢の残滓に縋ろうにも、もう跡形もなく右から薬師、左に鄭覚が私を覗き込む、それが現実。
 口の中には、何かを含まされた苦い跡があった。
「胆臓がずいぶんと腫れておいでです」
私のからだを薄絹越しに触診した典医は、腹の辺りに何度も掌を彷徨わせた後、そう言ったが、
「胆だけではないだろう?」
拝礼する典医にさらに問う。
「恐れ多いことながら…肺臓も、お病みになっている御様子」
そうか…この倦怠感は、病から来ていたのか。得心して、却ってほっとする。病篤いと言われ、なぜ、安堵の気持ちが湧くのか。
 数年来、常にどうしても抜けない痛みとだるさが身体のどこかにあった。それは、決まって夢であの男と激しく睦み合った後のそれなので、夢の甘い記憶として私はむしろそれを喜んで受け入れて暮らしてきた。
 急速に萎えていく男としてのその活力を訝り、何ごとにも疎漏ない鄭覚が後宮の女官たちとあれこれ策をめぐらせ、私の飲食は日々変化に富んだが、一向にその男の活力とやらは戻らなかった。
 てっきり夢で楽しみ過ぎたばかりにと思っていたが、やはり身体には病が巣くっていたか。
 こうなると、鄭覚をはじめとする後宮の一党に秘めた勝利を味わった気持ちを持つのは、許されないのか。
 

 王亮を宰相の座に迎えてから、私の寝間で大切に育てているあの日の梅は、二度花を開いた。
 決して毎日あの男と夢で出会えるわけではなかったし、宰相の職務がそれほど安楽なものでないことも知っていたから、それぞれが眠りに就く時間も大いに異なり、どちらかが相手を待たせることも多かった。
 果たして、彼をあの江南で見たような、逍遙の日々から連れ出して本当に良かったのか。
 だがしかし、不惑の年も近い男盛りを少し過ぎた男が、高官を率いて垂拱殿に参内するのを玉座から眺めるのは心躍るものだ。
 何にも代え難い。
 先頭を颯爽と歩いてくる王亮の濃い青の衣装が、やや薄い色の下級官僚の衣装の間でまさに青一点、際立つ。
 遥か昔、皇帝という名を初めて使い、その後宮に数千の妾を抱えた男は、女たちをその寵愛する順に並べ、階級ごとに異なった衣を着せたという。最愛の女が綺羅を纏い侍女を従え拝謁するのに満悦したらしいが、果たしてその男と私にどれほどの違いがあるだろうか。

 私は、君に惚れている。
 宰相を愛でる皇帝は、許されないか?

「朕は、王宰相が傍に居てくれるだけで、これほど心強くさせられたことはない」
そんな言葉を下賜すれば王亮は平伏し、その破格さに居並ぶ万官は驚く。
 私は生来愚かにして非才。
 かつて、ただ一度江南に逃れ、望むべくもなかった同輩の友、しかし格段に偉才を放つ男と共に過ごし、賢いとはいかなるものか、その前に立つと、凡才とはどのようになるものかを思い知った。
 熾烈な競争をくぐり抜け科挙を勝ち抜いた男たちの頭の中身とはいかなるものか…。推察することは出来ないが、その底知れぬ気配だけは判る。
 私の足元で拝礼する男たちの全てがそうなのだ。
 その上に唯一絶対君臨する私は、凡夫。
 ただ、私は皇帝の子に生まれたというだけに過ぎない。
 おそらく、そこに居並ぶ誰一人、本当の私を知らない。
 私の嘆き。私の喜び…を。
 ただ一つ、皇帝という私を利用して己の栄達を計ろうとするために、ただそれだけのために私の関心を買おうとして、知ろうとするのだ。
 そのための私の歓心。
 私の喜び。
 私の夢。

 あの言葉を下賜した翌日、どうしたことか鄭覚が侍従たちに命じ万官が拝謁する垂拱殿の玉座の前に御簾を下げた。
「臣下には、軽々しく陛下のお姿を拝謁させることはありません」
私のあの言葉を鄭覚はどう解釈したのだろう。それは、後宮の女たちにどう伝わったのだろう。
 見た目は、すでに見る影もなく老いの影をたたえ出した私が、筆頭宰相…それもやはり不惑間際の政治家を、美女を見るように想っていると…果たしてそこまで気がついたのだろうか。
 それはあり得ない。
 万事、私の身辺に目配りする鄭覚でさえ、あの夢から目覚め、物憂い様子で床に横たわる男の惚けたそのわけを決して知り得ない。
 けれど、知ることと察することは違い、禁ずることと遮ることも違う。
 注意深く帝としての私の見つめる先、心の底を知ろうとし続けるのが、宦官という寄生して生きる者たちの生きる術。
 だから知り得ないことを…彼は察したのだ。
 果たして、鄭覚がその姿を見せずに過ごした江南の日々に、彼の目をかすめて知り合った少年が、その宰相と思い至ったろうか。
 さらにその宰相と一国の帝が、一つの淫らな夢を共有している秘密を…。

 ああ、この宦官ならば、知ることは出来ないまでも、察したに違いない。

 あの日以来、私は夢を見ていないから…。
 「陛下、痛みでお苦しみなさいますな。この薬をお召し上がりになって、御寝なさいませ」
そう言って、典医と薬師、そして鄭覚が前後左右から勧めた薬は、真っ暗な穴の中に落ち込んでいくような眠りをもたらした。
 その暗さと冷たさに私は、怯える。
 生きながら針の山を歩くような激痛の夜を耐え、一瞬でも彼に会う夢を見るか、それとも薬で暗く夢の無い夜を過ごすのか。
 初めは拒絶した身体が、痛みを癒すという目先の安易に傾く。

 もう…望みは叶ったのだ。
 手放すときがきた。

 その日、垂拱殿での奏上を受け、いったん内邸に退いて食事と更衣を済ませたが、その時から身体が言うことを効かなかった。例のごとく滋養に富んだ汁物と妃の一人が郷(さと)から取り寄せたという汁気のたっぷりある果物をほんの少し口に入れるのがやっとで、次の朝議の間である延和殿までは、ついに輿を用意させた。
「不坐、と告げましょう」
と、皇帝が出座しない由を伝えようかと鄭覚が言い出したが、私は聞かなかった。
 上奏文が長々と読み上げられる。
 帝である私に唯一、政治を言上できるのは宰相である王亮。
 その王亮が、御簾を隔てたそこで私を見ていた。
 帝である私と宰相である彼。
 暗愚な帝と英明な臣。
 夢に居る十五の少年はここにはいない。
「伯月」
口の中で誰にも気づかれぬように呟いた。
 瞬間、油汗が流れた。
 腹に激痛が走り私は何か喉をついて上がってくる物を耐えるうち…不覚にも玉座を滑り落ちていた。
 転がった拍子に御簾が落ち、三段の階段を転がる間に被り物の紐が顎を外れた。
「陛下…」
延和殿に居並ぶほぼ全ての人間が、おそらく一斉に同じ声を上げたに違いないが、唯一、
「皇子っ」
最前に立った男だけは、そう叫んで、捧げ持っていた奉書紙をうち捨て真っ先に駆け寄り、私の身体に触れた。腹から背繰り上がったものは口を満たし、その味から、それが何か判った。いくら愚かな私でも、どうすべきか判って、
「伯月」
字(あざな)を呟くと一緒に、血の味を喉の奥に押し戻した。
 あの日の少年が、四十に手が届く男二人になって、ようやく幾重にも重なった衣の肩を抱き合った。
 しかし、それは瞬きの間もなかった。
 間に典医が入り、薬師が入り、侍童が二人。
 そして、鄭覚が宦官の一群れを率いて私と王亮の間に割って入った。
 以来、私は真っ暗な眠りの牢に住んでいる。
 閉じこめたのは、鄭覚だ。薬を飲まなくても、私が口にする何かにそれは混ぜ込まれ、結局は、夢のない眠りに落とし込まれた。こうしていつか本当に意識を失い、もう二度と目覚めない暗い冥り(ねむり)の淵に沈むのだろう。それならばこの意識がひとかけらでもあるうちにしなければならないことがある。
 
 “傍に来てくれ、伯月”
 その夢は叶い、今、将に君を解放する日が来ている。
 思えば、彼を傍に迎えたことが私に叶った唯一のわがままだったのか。
 どうにか夢を我が元に奪い返し、その中で謝り、そして感謝したとき、君は私を許してくれるだろうか?
 妻と妾と、そして他の床を共にした無数の誰ともみたことがない甘美な夢を、ありがとうと言ったならば…。
 
 君の姿を夢にみるのが、きっと私の最後の眠り。
 決して目覚めないし目覚めてなどやらない。

 君に、会えるなら。