| 君難託 彼の表情は硬く、そこからは何の感情も読みとることは出来ない。 「陛下に、これを…」 と、ひとこと言うのみ。 私は玉座からその男…今朝まで、礼部侍郎同中書門下平章事、つまるところ政務一切を任せていた“宰相”の王亮が平伏し、何を思ったのか遠目にも重く蕾をつけた梅の一枝に懐から取り出した書状一つを付けこちらに差し出し、いとまの言葉一つ、あるいは急な左遷の恨み言一つ、こぼさず去って行く姿を呆然と見つめていた。 「何か、もっと…得意の弁舌で憎まれ口など申すのかと思いましたが…。王亮殿も己の分というものをわきまえていらっしゃるのでしょう」 傍らに控えた侍従の鄭覚が、相変わらずの皮肉な口調を隠しもせず、王亮が置き去った梅の枝と書状を取り寄せながら誰に聞かせるでもなく、否、将に私に聞かせるために呟いた。 早春に花開く、白梅。 私の私室にも実際、そのつがいの紅梅がひっそりと春を待ちながら鉢にあった。 そのことを“思い出せ”とばかりに、梅の一枝を置いて行こうというのか…彼は。 「鄭覚、中書門下平章事司馬悠をここへ」 だが、その梅にまつわる些事に情を募らせている時ではなかった。 梅の枝と書状は、侍者に取り片付けさせ、私は、新しい宰相を任ずることを優先せねばならない。今、呼び出そうとしている司馬悠は、去ったばかりの王亮が宰相として打ち出した政策に対し、ことごとく反対してきた政敵だ。王亮を去らせ、司馬悠を宰相に任ずることを決めたということは、つまるところ、王亮が掲げたこの国の財政改革の道ではなく、司馬悠の提唱する増税策の方針を皇帝である私が選んだということだ。 “わたしが決めるのだ、誰に命ぜられてのことでもない…わたしがこの国の主” どうしたわけか萎えていく気持ちを深呼吸でなだめ、顔を上げた。 いつに増して、ぎょうぎょうしい装束、とりわけ被り物が重く感じられた。この身の中に住まう病が、桑を喰む蚕虫さながら我が肉を食い荒らし、それを糧に蛹を作り、いつかは羽化するに違いない。 淡々と葉を透かせる羽虫のようにいつかこの身は抜け殻となり、枯れ倒れる日は近い。 そうなった時、心血を注ぎ、国政の改革をその身の芯から試みてくれた王亮を、この身が薨ずれば庇いたてることは叶わない。私が帝の位にあってこそ守れること。亡き後、皇子の誰が帝位に就いても守り切れぬであろう、王亮の立場。ならば、日々増殖する彼への非難の高まりに、私がしてやれるのは、その任を解いて、彼を野に下すこと。 下賜した幾ばくかの財があれば、彼は故郷にあって、悠々とした日々が送られるに違いない。 もともと詩作で身を立てると野望していた男を無理に“祭事に屠られる牛”と荘子に言わしめた宰相の位に無理にと望んだのは私だ。 端から見れば、皇帝の寵厚い宰相と映っていたに違いないが、その高位は彼をただ苦しめたに過ぎない。 ならば汚濁に満ちたこの官位は、私の嫌いな輩に呉れてやろう。 お前は、野に下り、悠々と自適すればいい。 「陛下、臣司馬悠が参りました」 侍従鄭覚の耳打ちで我に返り、足元で平伏する男を見下ろした。 「司馬悠、お前を礼部侍郎同中書門下平章事に任ずる」 私の言葉に対して慇懃に拝礼を返す男を新たな贄としたこと、しかし、それには当事者の司馬悠も全く気づくはずもないことに密かに溜飲を下げ、席を立った。 「陛下がお下がりになります」 鄭覚の先触れの声に、奥に続く幕が次々上がっていく。後ろに司馬悠の視線を感じ、 「期待している」 と、あり合わせの言葉を去りがちに与え、私は、独りになれる奥へと踵を返した。 君託し難し 槿花 朝に咲いて 暮れに還た墜つ 妾が身は 花と寧ぞ独り異ならんや 憶う昔 相逢いしとき 共に少年なりき 両情 未だ許さず 誰か最も先なりしを 君が綢繆たるを感じ 君を逐うて去り 君が家計を成すこと 良に辛苦なりき 人事の反覆 那んぞ能く知らん 讒言 耳に入って 須臾に離る 嫁せし時の羅衣は 更に著くるを羞ず 如今 始めて悟る 君の託し難きを 君は 託し難き 妾は亦 旧時の約を忘れざるに 一読し、頬が赤らむのを禁じ得ない。 “憶う昔 相逢いしとき 共に少年なりき 両情 未だ許さず 誰か最も先なりしを”などと、王亮め、何と大胆なことを詩にしたため寄越したのだろうか。 私室とはいえ常に数人の宦官の姿があり、独り言を吐くにも神経が要るというのに。 この詩には参った。 ため息をこぼさずにはおれないではないか。 去りがちに王亮が梅の一枝と共に置いて行った得意の詩は、長く連れ添った夫婦になぞらえ、私に恨みと別れを伝えていた。 むくげの花が朝開き、夕方には落ちる わたしとその花のどこが違うだろう 思い出せば出会った頃は、どちらも若かった どちらのほうがさきに愛情を覚えただろう 君の愛の深さが判ったから、一緒になったんじゃないのか 君と暮らして、家のやりくりは、なみたいていのことじゃなかった けれど、人の心がわりは、予想もつかないもの つげ口をする人があって、たちまち別れ話になってしまった 祝言の晴れ着をもう一度着ることは、恥ずかしくてできない 今になって判った。君があてにならない人だということが 君の心はあてにできない わたしは、昔の約束をけっして忘れてはいないというのに… こんな恨みがましいことを言う王亮で無いことはよく知っている。 その彼がこうして拗ねるような書きぶりで、よくある狎れた夫婦の別れに自分たち、皇帝と宰相の関係を当て擦るのは、よほどの怒りに駆られたからに違いない。 “妾は亦 旧時の約を忘れざるに” 達筆な筆の流れが最後の一行で破れ、怒りに任せて跳ねていた。 「何と無礼な…。陛下と己とを巷の貧乏夫婦になぞらえるとは。さすが、あの青苗と募役とやらで貧乏人の天下を画策した男の詩らしゅうございます」 広げた奉書紙に、一寸前から影が落ち、盗み読みの犯人は誰と判っている。 「野に下ったものだ。もう無礼講としてやろう」 この男、侍従の鄭覚。 彼の詮索は避けたい。 四六時中、帝である私の身辺にある宦官達の長である彼に、“それ”を悟られてはならない。決して気取られることは無いと判ってはいるが…それでも病で隙間だらけとなった我が心がいつ主に黙って造反しないとも限らない。 「今夜は、どの妃をお召しになりますか」 後宮には妃が百人ほど居るという。父祖の御代に比べればはるかに少ない女たちだが、鄭覚は、聡くも、何時、どの女を私が幸したかを記憶していて、現に今も、その頻度の高い女の名を書き付けた札を盆の上に数枚置き、交わった回数など当の本人すら知らぬものを…伽の相手を選べと黙したまま責めている。 「気分がすぐれぬ」 差し出す札を片手で振り払うと、一寸探るような視線を私に投げた鄭覚が引き下がるのを見ながら、 「儂の病篤いの知って居るではないか。染るそれを抱えどうして愛妃たちと交われよう」 鷹揚な笑い顔を作る。 瞬間、胸が痛んだ。 帝となるべく生まれた私だから、多くの者の注視の中で生きるのをさだめとし、本心を押し隠すことなど慣れ切ったことだ。 だが、どうしたことか。絶え入るほど今は、胸が痛く、それを散じる薬が喉から手が出るほど欲せられる。 だが、それを口にすれば、夢を見ることは叶わない。広げたままの手紙を丁寧に畳みながら、 「少し、横になる」 とだけ、慎重に口にした。床の用意を心得て去っていく侍従を尻目に、大壺に生けられた白い梅に目を止め、本当に誰にも悟られぬことを願いながら、痛みに耐えかね漏れそうになる吐息を腹の底に落とし込んだ。 「いつもの薬湯は?」 見透かしたように、またしても鄭覚の声。 「お身体が冷たいご様子。伽に若い侍童を侍らせましょうか」 独り寝がしたいというのに、侍童を抱かせられては叶わない。 「どちらもいらぬ。今は午睡だ。皆、しばし退れ」 まとめて答え、私は目を瞑る。 いざ行かん。 唯一の贅沢。 帝の一挙手一投足に目を光らせる輩に、決して知られることのない逢瀬の場へ。 こんな昼日中、しかも彼…今や蟄居の身となった男は、逍遙遊の最中に違いない。 おそらく邂逅(あえ)ないかも知れないが、私はそこに急いでまろぶように走る。 “憶う昔 相逢いしとき 共に少年なりき 両情 未だ許さず 誰か最も先なりしを” 愛したのは、私が先だ…と、詫びたい。 こんな詩を書かせた私はまさに「難託」だ…と。 薬の伴わない眠りでは、夢見る贅沢がある。 そこには待つ君がいる。 一つ、どこか…おそらく壺の白梅がほころび花開いたのか。その香りが鼻奥をくすぐる。 あの日…やはり梅が…むせるほどに咲き誇っていたあの場所以来、私たちは夢を共有している。 “夢” 私たちは、別々の床にあっても同じそれを共有しているのだ。 あの梅林の奥、若い日の姿のまま…彼は夢の中で待っている。 次 戻 |