矢のごとく駆け抜けり
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 机上の空論は、明けて睦月の晦日、あっけなく崩れた。

 年の暮れ、鮫ケ淵には与板から五十丁の火縄銃が運び込まれていた。
 三郎は喜びを隠しきれず、だが、五尺になろうとする雪壁を眺めながら、
「新春だ。雪は溶けぬか」
と、じりじり過ごしていた。
 そんな年明け。
年始の挨拶に赴いた春日で富樫が開口一番、
「貴公、昨年の秋、領内へ戻ったか」
切り出してきた。
「いいや、一度も。お前に手紙をやった通り。三郎殿の動きが気ぜわしくてな…目を離すと…」
わたしが言い抜けようとするのを制して、
「そうか」
と、一言。
 その後の年賀の宴席でも、彼は一度も、わたしの目線を合わせようとはしなかったのだ。
 
 まさか…。

 不安は的中した。

 「わたしと奉行に出頭せよと、影勝が言うてきた」
 明け方、その文を持ってわたしの居室を訪れた三郎は、すでに矢筒を背負って戦人の出で立ちだった。
「三郎殿」
「鉄砲のことでございますな」
彼は頷いた。
「どうなさるおつもりでございます」
「出頭は出来ぬ。拒否すれば、それは口実に取られよう。さすれば戦うしかあるまい。こうなると判っていた。だが…奉行は、巻き込まれただけだ」
「もう、そんないいわけは通らないほどになっております。お供いたします」
早晩こうなると…、亡き御館さまがあの御遺言をされた日から、影勝殿も三郎殿も互いに、矛を交えるための理由を求めていたのではなかったか。
「あの夜から決まっていたのだ」
心を読んだように三郎が口に上せた。
 あの夜とは。
 武士の最後にしては、無惨。
 恥辱に近いそれを封印したその瞬間。
「あの夜にも世話になった。これ以上は、奉行を困らせたくない」
「困らせるのは、二度も三度も一緒でございます。どうか…」
閃いたのは、三郎の心にあった青い海。
 あそこに逃がしてやりたい。
「まだ戦になったわけではございません。ならば、すぐに船を支度いたします。ですから…三郎殿」
それだけ言うのがやっとだ。戦装束の男に、逃げましょうなどと切り出せない意気地の無さはどうしたことか。
 躊躇している間に、この室へは三郎の近習が二人飛び込んで左右で身構えている。
 すでに、ここは陣中なのか。
 長い間のいくさのまねごとが、今、わずか数行の文で、真実のそれに変わっていくのだ。
 影勝は、果たしてそこまでの深慮があってこの文を…。
 否、いくさ嫌いのあの影勝殿にそこまで遠謀があったとは思えぬ。
 だが…。
「御免」
 三郎は一声。
 背負った矢筒から矢を一本取り出し、番えるなり放つ。
 障子に刺さり、
「ぎゃっ」
と、声と同時に障子と共に女が倒れた。
 富樫が寄越した夜伽の女。
 やはり、内通を。
 喉笛を一閃、射抜かれた神業をその死骸に見ながら、わたしは矢筒からもう一本、矢が引き抜かれる気配を感じた。
 それも…いい。
「奉行、許せ」 
至近距離で小気味よく弦が鳴った刹那、右肩を激痛が過ぎった。
「三郎殿」
「許せ、奉行」
目の前が赤に染まる痛みで、立ち上がることも出来ない。
 三郎を止めねば。彼を逃がしてやらねばと、思うそばから気が遠くなる。
「夢は一つ叶えば良い。奉行とは良い夢を見た」
耳元で囁かれ、その腕に抱きかかえられながら、わたしは意識を失った。







 わたしの所領与板に隣接する長岡の山奥に、蓬平の湯があった。
 ここに来て、ひと月が過ぎる。
 まる三日、春日の城下外れの雪だまりに女の骸と共に転がされていたのを、いよいよ出陣した影勝殿の先陣に見出されたのだった。
 激しい出血で、一時は命も危ぶまれたのだというが、戦いが春日方勝利で終わった如月の末には、ようやく起きあがれるほどになった。
 幸か不幸か。
 戦は、雪の晴れ間を縫いながら、半月ばかりは続いたという。
 良く訓練されていたとはいえ、数の上で大いに劣った三郎が、半月凌いだというのは、彼の嫌いな雪が味方して、旧来の騎馬戦を影勝殿が展開できなかったせいか。
 あるいは、あの夏に数限りなく繰り返した、いくさ遊びのすべての陣をあの小隊は繰り出して守り抜いたのか。
 恐らくは、嬉々として、そのいくさすべてを楽しんだに違いない。
 そんなことを話してくれたのは、あの富樫であったが、詳しく語られずともわたしにはその詳細を思い浮かべるのは容易かった。
 さらにひと月、傷が塞がった折りを見て、わたしの身柄は所領与板に隣する長岡の長谷部政親の預かりになった。

 「御館さまの精を受けるうちに、魔物が住んだか」
届けられた首級を一瞥して、影勝殿はそう言い放ったという。
 詮議すればすぐに判るはずのわたしの裏切りは、ついに断罪されなかった。
 言うなれば主公殿からわたしを押しつけられた長谷部は、この処遇を手ぬるいと言い、
「影勝殿の度量よ…な」
と、逆に褒めた富樫も、やはりいくさ世の白黒はっきりつける何かが、名賀尾家の美風から消えたと嘆いていた。
 わたしの身の上は浮いたようになって、それは在りし日の質子の境遇そのままに、蟄居の分際だった。

 すべては終わってしまった。
 いつ死んでしまっていいと投げ遣りにまたひと月。
 それでも今日もまた、傷に良く効くという蓬平の湯につかり、やはり命があったことをどこかで喜ぶ己に気づいていた。
 わたしも影勝殿同様、嬉々として戦いに死ねる、あのいくさ世の武人ではもはやないのか…。
 そう思うと、ため息になった。
 肩には大きな傷があった。
 無論、今は薄く膜が張って、傷は塞がっている。
 傷は癒える。
 身体の傷はいつか塞がるものだ。
 死に急がない限り。
 だが…。
 彼に射抜かれたらしいこの心の傷は、どうにもふさがらないのだ。
 ふさがらないどころか、心に刺さった矢はどうにも抜けないままのようだ。
 丁度、あの夜「この辺りにあなたが棲まっているのです」と指さした辺り…が、熱い湯の中でも酷く疼く。

 「もう一つ、夢を叶えて差し上げたかった」

 揺らめく湯の波の間に、遠く、暖かく、青い、三郎殿とわたししか知らない海を見た。

 了

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