矢のごとく駆け抜けり
 1

 沖合には灰色の重い雲が深く垂れ込め、雪が来る湿った気配があった。
 波は意外にも穏やかだったが、暗緑の中に沈んで幾つもの波紋を岸に運んでいた。
「やっ」
かけ声が一つあって、豆粒ほどに小さい人影が、あっという間に大きくなって近づいてくる。深い雪に大地を奪われた越後の厳冬に、馬を思い切り走らせる場所は、この海岸にしか見出せなかったが、これほど熱心に馬を駆り、荒海から吹き寄せる寒風に身を研ぎながら稽古にいそしむ若武者を見るのは初めてだった。

 “質子(人質の意)三郎が、海岸で流鏑馬の稽古をしている”

 随分前から家臣団の間では、噂にはなっていたが、今日に至るまでその様子をこの目で見たことはなかった。
「奉行、そなた行って、一度、三郎の様子を見て参れ」 
どういう気まぐれか、御館さまから下命があって、わたしは天候も良いのに押されるように浜に出た。
 城下から浜までは、わずかな道のりだったが、そういえば雪深い冬に、荒れ狂う海辺へ駒を進めたことなど、生まれてこのかた一度もなかった。
「三郎は変わり者だからな」
どこかそれを喜ぶような御館さまの口癖を道すがら思い出した。
 御館さまの三郎贔屓は、今に始まったことではない。
 越後守護代から一代で大名となった名賀尾の御館さまは、つとに聞こえた寵童のご趣味ゆえに齢五十五の今も、正室を置かず、子もなかった。
 代わりに質子が二人。
 一人が、影勝。
 越後国衆でも最大勢力の阿賀北衆を束ねる色部氏から差し出された。
 もう一人が、三郎。
 北信濃で激しく対立する武多からの質子にして、元は徳川に組する九鬼水軍の三男、九鬼三郎正信。
 二人のどちらか、あるいは家臣団が許せば二人に国を分かち、それぞれに治めさせることができれば…などと、勇猛な戦国武将も老いを得て、いつか甘さが目立つ一介の爺になっていた。
「真冬の海岸で流鏑馬などとは…三郎さまのうつけにもほどがあります」
御館さまの手放しの褒めようをいさめると、
「奴は海から来たのじゃ、人魚の子だから、海が好きなのだ」
と、二十歳をとうに過ぎた質子に対しての破格な御恋情を露わにしたお言葉を賜ってこちらのほうが当惑した。

 北陸の地に、名賀尾影虎ありと恐れられた猛将の姿はここにはない。
 御館さまは老いた。
 老いて、病み、ましてや正室や子もない男の晩年は底なしの孤独だ。
 そんな老将が、寂しさを埋めるように片方の質子に惑溺する…。
 もし仮に、このままみまかられるようなことがあれば、お家騒動は必至。
 家臣団が二手に、否、二手に分かれる程度ならば、まだ事態は軽いのかもしれない。その混乱に乗じ、互いに攻め倦んで北信濃で膠着している武多の軍勢が押し出してこないとも限らない。
 今は、戦世。
 かつて、御館さまが大名への階段を昇るきっかけを得たのも、主筋にあたる上杉家内の国衆と一族衆の内乱に乗じたものだった。
 味方の争いごとは、敵の好機となる。
 他人の不幸は、我の好運。

 かつて、御館さまを天下人の仲間に押し上げた好機と同じそれが、一党のうちに燻りつつ、時だけがいたずらに過ぎていく…。
 
 ひゅうと一陣の風が巻いて、それと共に燦々と白いそれが海から来た。
 雪の冷たさでわたしは我に返り、その途端、降りしきる中を駆け抜ける若武者が、視界の中に飛び込んできた。
 “やあっ”
 かけ声が一つ。
 同時に、弦が鳴った。
 いったい、この男は、幾つの的串を立てたのか。流鏑馬の手本からすれば、あまりにかけ離れた数のそれが、茫洋と続く越後の海岸に刺してある。
 馬を己の股と足先だけで制御して、その上下動に身をゆだねながら、矢筒から矢を引き抜き、番えて、狙って、放つ。
 人に出来るその一連の行為には限界がある。が、眼前の若武者は、馬の激しい動きをむしろ楽しむように微笑さえその顔に浮かべ、不空絹索観音の手もかくやという素早さで背負った矢を次々に繰り出しては、的串を二つに射抜いて行く。
 “やっ”
 その見事な弓さばきへの賞賛は、寒風の中で上がる、たった一つの、か細い彼の鯨声のみ。往年の鎌倉のそれであれば、もののふのやんやの喝采があったろうに。
 誰に知られることもなく、磨かれてきた、弓の腕前。
 いつか何かの取引の中で潰えていくに違いない質子のそれが、暗く厳しい越後の雪風の中に舞う。
「これは、奉行殿、お珍しい。こんな寒空に…お出ましとは、義父上のご命令か?」
 気づくと、若武者は、わたしの眼前、枯れた浜暴風が白く埋もれた砂丘の麓で、こちらを臨んで馬を回していた。
 風雪が激しく、若者の束髪が女の長髪のように細かく空に踊る。それは、直前まで剛胆な武芸の腕前を見せた若武者を、まるで、かつてこの浜に打ち上げられ悲しい末路をたどったという美貌の人魚のようにも見せる臈長けた美しさだ。

 「奴は海から来たのじゃ、人魚の子だから、海が好きなのだ」
 
 老醜を滲ませる御館さまの言葉がよみがえるが、その言葉に知らず頷いているわたしのこの心は、どうしたことだ?

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