目が開くと眩しい光が部屋に満ちていた。
 白い壁のそこが、師が取った宿のそれだと気づいて、僕は本当に安堵した。

 奴隷船の上で助け出されるや師は、見る間に黒い霧のようなものに変じた。
「師匠さま?」
僕は、自分を包んでいるこの不安定なものを恐れ慌てて、その名前を呼んだ。
「これが一番早かったのだ、アルマリク。しっかり掴まっていれば大丈夫だ」
そう言われたが、掴まるところはいったいどこにあるというのか。
「どこに掴まれば…?」
と、師に問う前に、息も出来ない速さが身体を包んで、あまりのその勢いに、僕は気を失っていた。

 「悪かったな、やはり、生身の人間には、少し速すぎるらしいな。だが、お前が連れ出された船に追いつくにはあれが一番だったのだ」
 寝台のそばに師が近づき、水差しを差し出してくれた。
 僕は慌てて起きあがり、それを手に取ると、杯にも移さずにそのまま飲み始めた。冷たいそれには、薄荷が少し混ぜ込んであり、喉を通り、腹に落ちるとすうっと爽快感が広がった。
 わずか一晩しか経っていないと言うのに、ずいぶん長いことこんな爽快なものを口にしていないような気がした。
「まだ、寝ていていいぞ。身体が痛むだろう。もう一杯、水を飲んでからがいいか?」
あっという間に水を飲み干した僕を見て、師は笑った。それを眺め、
「ご心配をおかけしてしまいました」
僕の口からは、謝罪の言葉が滑り出た。
「もういいよ、アルマリク。これも修行だ。わたしの言葉を守らないとどうなるかと言う戒めの経験だ」
師は、僕の頭を愛しげに…いつものおさな子にするように…優しく、本当に優しく撫でてくれた。
 ああ! もどかしい。
 瞬間、また僕は、あの“欲望”を感じた。
 今ならば言えるかも知れない…と思った。
 だが…口を開こうとするより早く、師は、
「だが、どんなに修行しても……アルマリク、お前はいつか、わたしの元を去っていく」
と、言い出して、僕に当てていた気遣わしげな視線を遠くに流した。
「えっ?」
僕は、その視線を追いかけた。その先には開かれた窓があり、そして青い海が広がっていた。
「師匠さま…僕は…僕は、あんなふうに連れ出され無い限り、師匠さまのそばを自分から離れるようなことはいたしません…どうか、そんなことをおっしゃらないで」
僕は慌てて言葉にした。
 師が今、何を思うのか判らない。
「お前を探して、それこそ夜中のスークをひっくり返すように探した…。やっと、あの店と判って出向いたら、小さい子どもが出てきて“身柄は預かった。金を持ってこい”と、言うではないか。おのれ…この店の中にと、引っかき回したが中にあるのは盗品ばかり。それからは、“力”の使い放題だな。街へ通じる道はすべて封印のまじないをかけ、今度は港だと思ったが、船という船にまじないをかけて出帆は封じたものの、小賢しいあの奴隷船はさっさと出航した後ではないか。港の船を調べ上げた頃には、夜は明けかかるし…まあ、わたしでも頭に血が上ると、こういう失態をするということだ。とにかく…見つかって良かった」
ふと、スークをその持てる力で引っかき回している師の姿が浮かんで、笑いがこみ上げた。それらがすべて僕のためだったと思うと、限りない嬉しさがこみ上げる。
「お前は、大切なわたしの弟子だ」
「はい…」
「だが…どんなに大切にしても、いつか必ずわたしの前から去っていく運命だ」
師の言葉を受けて、高揚した気持ちが瞬時に萎えた。
「決して離れていくことなど…ありません。決して! もうこんな愚かなことでだまされたりは…」
「馬鹿者、そういうことではないよ、アルマリク」
「師匠さま?」
「どんなに探しても、追っても追いつけない場所。“魔法使いのアルハティーブ”がこの持てる力すべてで追いすがろうにも…届かない場所。そこにお前も逝ってしまう…判るか、アルマリク」
海を見ていた青い瞳が僕に戻って、はっとなった。
 青い海からは、水があふれているのを僕は見た。
 師の言う意味が判った途端、胸が尖った何かで突かれたようにきりりと痛んだ。
 奴隷船であれほど無体な扱いを受けたときでさえ、一度たりとも痛みを訴えなかった心が悲鳴を上げる。
「師匠さま…」
「まあ…仕方ないことだ」
僕の顔を見て、師は苦笑いを浮かべながらいつもの子ども扱いをした。
 その扱いの意味が僕には判った。
 それが判ってしまうと、僕には言えない言葉が出来てしまった。
 先刻、己の“欲”の衝動から発作のように口に出したくてたまらなかったそれ…。

 “あなたを、ずっと愛しています”

 永遠を生きる師に、ちっぽけな僕の“ずっと”は、嘘になる。
 僕は師への想いをすべて飲み込んで、彼が望む、子どものような無垢の笑顔を一生懸命に作った。

 心がぎいぎい悲鳴を上げて痛む。

 “アブラカダブラ…ブラカダブラ…”
 ふと、スークで買った護符のことを思い出した。どこに置き忘れたのか、気が付くと懐からは消えていた。
 おそらく、戒めのために師がこの身を海に叩き込んだ時にでも、無くなったのだろう。
 今こそ、僕にはあの護符がいるような気がしてならない。

 呪文の意味は“この文字のごとく、痛みよ消えろ”だ。
 
 この痛みは、恋の痛みだ。



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